セクシュアリティの定型と越境
最近たてつづけにアメリカのセクシャルマイノリティの本を読んだ。
読んだのは大人のゲイカップルが書いた本と、大人のゲイカップルを書いた本と、十代のトランスジェンダーたちに話を聞いた本。
3冊だけだけど、日本とは拒否反応のポイントがちょっと違うんだなと思った。
拒否というか、許される越境の違いかな。
アメリカは自由とか日本は寛容とかってわけじゃない。
どちらも定型として認められる範囲があって、その型が違っている。
アメリカの本では同性愛という市民権を得つつある型にはまるならOK、トランスジェンダーはまだアウト。
日本では「夫婦」「男」「女」の役割を守れば越境OK、というか内実はどうでもいいからその役割にあてはまるよう形をととのえなさい。ってなってる。
日本人とアメリカ人カップルが主役の『リオとタケル』に、ふたりが日本人の実家に行った時のエピソードがあった。
友人として行ったのに、あんたたちお風呂に(一緒に)入っちゃいなさい、と言われてバレてるのかとアメリカ人が驚く。
アメリカ人的には男同士で裸で入浴という「行為」がアウト、日本的には友人という「関係」で風呂に入るのは普通。
アメリカ総領事として日本に来たカップルの手記『夫夫円満』では、今まで歴代総領事夫人がつとめてきた役割を男のパートナーが頼まれたエピソードがでてくる。
「この団体の女性たちにとって『伝統を守る』とは、歴代領事夫妻と同じようにゲイカップルを歓迎することだった」と肯定的に記されている。
肯定なんだけど、これって違いを受け入れたわけじゃなくて、夫婦という定型に夫夫をあてはめて応用しただけなんじゃないかなってソロ活動オンリーの私は思った。
トランスジェンダーの子が話す『カラフルなぼくら』では、こんな反応もある。
ぼくの家族は、ぼくがゲイであることは問題にしなかったけれど、トランスジェンダーとなると事情がちがった。親にとってトランスジェンダーが未知の存在だったことが大きな要因だったと思う。母はぼくにこう言ったよ。「あなたはレズビアンで、私は物わかりのいい母親。それでいいんじゃないのかしら」p278
ついでに言えば『リオとタケル』にはジェンダーロールにのっとった行動に疲れて「レズビアンじゃないけど男は面倒くさい」という女性がでてくる。
『カラフルなぼくら』には性別を移動しても「男扱い」が「女扱い」(あるいはその逆)になっただけで結局「自分扱い」をしてもらえないことへの嘆きも複数出てくる。
定型が一つしかない世界で生きていると、越境が許されるのはすごい進歩に思える。
たとえば女の子は赤いランドセルしか背負っちゃだめだと言われていたのに、黒も許されるとか。
でも本当は、世界はもっとカラフルで、男の子だから黒とか、心は女の子だから特別に赤を許可とかじゃなくて、灰色でも紫でも蛍光イエローでもいいはずなんだ。
だから、赤か黒を選ばされることが自由なんだって思い込まないように、世界にはもっとたくさんの色があるんだって気づけるように、視野を広くしなきゃいけないって自分に思う。
ランドセルの話は前にも似たようなこと書いたな。
これも同じ感じ。