馬脚チラリズム

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セクマイ的感想文置き場。本とか本じゃないものとか。

小野ハルカ『桐生先生は恋愛がわからない。』小学館 つづき

前にも書いたけど、『桐生先生は恋愛がわからない』というアセクシャル漫画(?)を少しずつ読み進めてる。
うーん。ちょっと頭でっかちかなぁ。
今の私にとってアセクシャルであることはさほど重要な問題ではないから、この話はあまりにもすべての問題を「恋愛しないこと」に帰結していると感じてしまう。
多分、私の中のアセクシャル性の比重と、この漫画のマイノリティ性の比重があってないんだと思う。

 

 

主人公がわかってほしい部分、セリフやモノローグで一所懸命説明している内容は、わかるけど説明過多で共感のまえに食傷してしまう。
この話はお仕事漫画というよりセクマイ漫画で、あくまでアセクシャルであることがすごく重要な意味をもつ。もちすぎてる。

 

主人公は漫画家という「表現する仕事」をする上で自分がマイノリティであることはすごく不利なんじゃないかみたいな悩みをかかえている。
でも、本当は主人公だって「恋愛しない人」というだけの存在じゃない。
他のマジョリティ性もマイノリティ性もかかえているはずなんだ。
たとえば主人公はたぶん身体障害も知的障害も精神障害もないし右利きだし日本人外見の日本国籍だし両親そろった一般家庭の出身で教育も受けているくらいマジョリティだ。
だけど主人公にはそれが見えてない。
自分がマジョリティな部分に無自覚だから、ジェンダー規範や恋愛至上主義の不条理やそこから外れることの生きづらさを訴えても、自分の傷にだけ敏感な人に見えてしまう。

自分の漫画を読む人たちや一緒に仕事をする人たちのマイノリティ性にも無自覚だから、自分だけ孤立気分になっちゃうんだと思う。

恋愛マジョリティとも、別の部分のマイノリティ性でならつながれるはずなのに、そういう発想にならないのがすごくもったいない。

 


とはいえ、アセクシャルの話を恋愛漫画の文脈で描くってこと自体が難しいんだろうと思う。
だってアセクシャルって恋愛しない人だから。
恋愛しない人が恋愛について考える話なんてどうしたって頭でっかちな考えの羅列にならざるを得ない。
恋愛しない人が恋愛(させたがる世の中でどうやったら楽に生きるか)について考える話、ならいける気がするけど、恋愛しないで生きていくには恋愛以外のことに力をさけばいいだけの話だしなあ。

ただ、恋愛しないとか性愛に興味がないというありかたは、「こんな部分で嫌な思いをします」「こういうことでじわじわ生きづらくなってます」「こういう人もいるんです」といちいち主張しなきゃ気づかれない程度にはマイナーなセクシュアリティだから、こういう本も必要なんだろうな。
あんまりマジョリティの理解を啓発する書き方ではないと思うけど。

でも、この書き方は不器用でめんどうくさいけど嫌いではない。
こうやって声をあげてくれる人がいることをありがたいと思う。