堀江有里『「レズビアン」という生き方―キリスト教の異性愛主義を問う』 新教出版社
牧師でレズビアンの著者が語る日本の今のキリスト教会内の異性愛主義。
キリスト教という宗教の中の、ではなく日本のキリスト教会という団体内の話。
なんか宗教上どうのっていうより保守というか躾のなってないおっさんに牛耳られた団体ゆえの問題、という感じだなあ。
レズビアン=女性同性愛者であることは、「女性」「同性愛者」というダブルの弱者であるということだ。
「女性」というくくりで闘う時も、「同性愛者(セクシャルマイノリティ)」というくくりで闘う時も、ないがしろにされやすい。
今はアンタの話をしてるんじゃないの!と脇によけられてしまう。
そんな内部の批判をすれば「もっと大きな敵と戦ってるんだから味方の足を引っ張るな」と言われてしまう。
自分を踏みつける足を払ったら相手が勝手にすっ転んだだけなのに。
マイノリティの中のマイノリティという存在の闘いにくさは、ブラックフェミニズムや障害のある失業者や薬物依存の女性なんかと同じ。
否定され続けていると理不尽なことをされても自分に怒る権利があると思えないから抗議できないというところも同じ。
という辺りはわかる。
でも最初からわかる人にしか伝わらない文章かもしれない。
「伝わらなさ」を語り、せめて「響く」ことを願うと書いてあるけれど、これはたしかに伝わらないだろうなあ…
「思い」は「響く」。わかる気がする。
でも、なぜそう感じるのかが説明不足だから、同じ部分を持っていない人にはきっとわからない。
私はたぶん同じようなものを持っているからわかる気がする。
けれど、もやもやを共有しているだけだから発見があるとか言語化してもらったという感じではない。
感覚を共有していない部分については解れなかった。
たとえば異性愛者が結婚することが婚姻制度からこぼれた人たちに対してどうのって部分。
著者の立場が説明されていないから、ダメだと思っているということしかわからない。どうダメかがわからない。
婚姻制度に無視された同性愛者をヘテロの結婚式によぶ暴力ってのは過剰反応のように感じた。
私はのっかれる人がのっかるのを悪いとは思わない。
異性愛者が結婚することを、著者がどんな意味で受け止めているのかがわからない。
「有色人種の友達と出かけて自分だけ白人専用ゲートを通る」みたいなことなのか「花粉症の友達の前で花のにおいをかぐ」みたいなことなのか。
前者なら差別に加担するなよと思うけれど、後者なら気遣いを要求するような場面じゃない。
ただ、わからないのは私の無知のせいもあるかもしれない。
これはどちらかといえばキリスト教徒(日本のキリスト教界隈に身を置く人)向け。
セクマイ用語の説明はあるけれど、キリスト教会の内部事情の説明はない。あとビヘイビアってなんぞ?
教義以前に組織がわからないから、たとえば総会がどんな意味を持つのかよくわからない。
だからそこで起こるひどいことがどんな影響をもつのかもわからない。
興味深いけど隔靴掻痒。
「キリスト教は同性愛を受け入れられるか」ではなく、「キリスト教はなぜ同性愛者を受け入れられないのか」という問題設定――繰り返すが、共同作業としての「対話」は、そこからしかはじまらない、と思う。
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