馬脚チラリズム

馬脚チラリズム

セクマイ的感想文置き場。本とか本じゃないものとか。

スーザン・クークリン『カラフルなぼくら』ポプラ社

アメリカで暮らす十代のトランスジェンダー六人へのインタビューをまとめた本。

トランスなのに副題がLGBTなのは、TのLとGとB(とI)の子たちの話だから。

 他国の十代の生き様や考えを知ることができる良書。

 

語られるのはトランスの話だけど、この子たちが抱える違和感の原因はトランスそのものよりも、社会のジェンダー観によるものであろう部分が多々あった。

ジェンダー観は国や時代で変わるけれど、規範に戸惑うのはマイノリティだけじゃない。

本人たちはともかく、本としてはそこにつっこむ姿勢がほしい。
 

たとえば、タイ人のFtMジェシーは、思春期がきたころ、みんなが「自分をレディみたいに扱う」のにうんざりしたという。

いわく「ドアくらい自分であけられます」。

でも男子としてタイ人のガールフレンドができたとき、アジア的な感覚で男の世話を焼きたがる彼女にもうんざりする。

赤ん坊じゃないんだから、お口にあーんされるなんてまっぴら。

 

ジェシーが嫌がっているのは自分がなにもできない子供みたいに扱われること。

ジェンダーを移動しても同じような不快さを味わったのは、周囲の人がそういうやりかたしか知らないからだ。

「自分は男だから女性には親切にしなければ」「自分は女だから男性の世話をしなければ」と、自分のジェンダーにのっとった行動を守ろうとしていたら、相手が望むことなんてわからない。

自分の行動に集中していたら、相手の反応なんて見えなくなる。

 

こういう扱いを受けるのは、トランスだけでなくスジェンダーでもヘテロでもひっかかる人はひっかかる。

そのうち慣れたり折り合ったりできる人もいるけれど、なじめないままの人もいる。 『あのひととここだけのおしゃべり』http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/477831087Xの中に、いきづらさを自覚できた子はフェミニズムにいくって話が出ていた。自覚できない子は苦しいよねと。それを連想した。

 

 

ひどいことを言われたり、無理解にさらされたりするエピソードを見るたびに、私がこの時この子のそばにいたかったと思う。

そうしたら、肯定してあげられたのに。

少なくとも否定しない人がいると伝えられたのに。

 

でも小学生の自分を思い返すといじめる側の子供だった。

そのちょっと後には自力でセクマイ情報にたどりつく程度にはマイノリティ性の高い子だったのに、自覚も知識もないときは自分と違う子を排除する側だった。

知識だけで差別をなくせるわけじゃないけど、知識で減らせる部分も多い。

だからこういう本は大事だ。 
 

 

 私が世の親御さんに言いたいのは、私がジョナサンにとったような態度をとらないでということです。どうか、自分の子供にひどい言葉を投げつけないでください。私はそれを一生後悔するでしょう。どうか、みなさんの子供を抱きしめてあげてください。p131

 

カラフルなぼくら (一般書)

カラフルなぼくら (一般書)

 

 

 

訳者後書きに代名詞の苦労が書かれていた。

一人称はどうするか、口調はどうするか、三人称の苦痛をどう伝えるか。

これ難しいだろうなと思いながら読んでいたから、きちんと考えて選んだのだと明言されていてほっとした。

だからp299の「もしかしたら、トランスジェンダーの存在が将来、言語の文法に影響を与えるようなことが起きてくるかもと、ついよけいな心配をしてしまうのである。」という文にいらっとした。

「余計な心配」ってなんだろう。どういう意味で使ったんだろう。

もしトランスの存在によって言語が誰にでも使える方向にシフトしていくならそれは素敵な未来だ。